小川正美 人生はホントの自分に戻る旅。

普通の会社員から離婚して無職になり一念発起、弁護士になった私の半生とこれからのライフワークを綴ります。

「お母さん、ごめんなさい。」はもういらない。

私は、人の話を聞くのが得意な方です。

人は、自分の話を聞いて欲しい生き物だというけれど、ホントにそうだなあ、と思います。

みんな、よくしゃべる。しゃべくり倒す。

 

でも、どちらかというと、この聞く力は、後天的に身に付けたものです。

本来の私は、承認欲求が強く、人に負けず劣らず大量に話す方。だから、こうやってブログを書いているわけだし、酔ってる時などに「俺の話を聞け~♪」とばかりにマシンガントークをする私を目撃したことがある方も多いと思います。

 

この聞く力を身に付けたのは、弁護士の仕事柄や、自分より若い人たちと接する機会が増えて「私も大人なんだから人の話を聞くべき」という謎のマイルールを作っていたという理由も大きいのですが、

一番は、「亡き母へのごめんなさい」だったと思います。

 

母が病気になる前、会社と契約更新をめぐるトラブルを抱えていたことは以前書きましたが、そのころ、母は、同じ職場の正社員の女性に対し、とても怒っていました。

いわく、その女性は、もう40代半ばなのに、仕事ができない、働く意欲もない、勤務態度が悪くてみんなに嫌われている、なのに正社員で安定した身分でずるい、という内容でした。

なぜ知ってるかというと、母が、毎日、毎日、ビールを飲みながらこぼしていたからです。

 

当時、私は、30代前半で、自分自身も離婚したばかりで、司法書士の勉強をしたりロースクールに行くことにしたりと社会的に不安定な状況でした。

さらに、出戻ってタダ同然で実家にお世話になっていることもあり、母には相当罪悪感を抱えていました。

 

けれども、基本的に合理主義者の私は、毎日毎日、同じ愚痴、しかも聞いたところで何ら解決しない愚痴を聞くのはしんどくなり、

母には遠慮がなかったことも相まって、割としょっちゅう、「その話ばっかり聞きたくない。」「それで私にどうしろっていうの。」と言っていました。

 

しかし、その後、母の病気が発覚し、わずか9ヶ月の闘病を経て亡くなってから、私は、とても後悔しました。

 

『なんでもっと優しくしなかったんだろう。』と。

 

亡くなった人、もう会えない人に対する後悔は、どんな別れにも付き物ですが、

この時の後悔は強烈で、私の性格を、特に私に向かって『話を聞いて!』と全力でぶつかってくる人たちの、聞き役に変えてしまうほどの力がありました。

 

その根底にあるのは、「話を聞かないと、かわいそう。」「もう後悔したくない。」という、ある意味、相手に失礼な気持ちだったのです。

 

例え、自分の時間やエネルギーが枯渇しても。

アンパンマンのように、聞いて、相手にエネルギーを渡す。私にはジャムおじさんはいないのに。

 

 

でも、今朝、ふと、思いつきました。

 

「母が亡くなったから、私は、もっとあの時、話を聞いてあげれば良かった、と思っている。

でも、もし、今も母が生きていたら?私は、あれから15年近くも母の愚痴を聞いていたのだろうか。」

 

きっと、私は、愚痴を聞いていなかったと思うんです。

だって、それは、母の問題だから。私がいくら愚痴を聞いても解決しないから。

 

母は、遅かれ早かれ、会社と子育て中心の生活を終えていたのであり、母がいかに生きるかは、母だけしか解決できないことなのです。

 

母は頭が良い人だったので、いずれ、正社員の彼女への愚痴は、自分の老後への不安と、これまでの自分の成果に対する会社の評価が自己評価より低いことを受け容れられない不満だった、と気がついたと思うのです。

 

そして、どのみち、お別れした人には、後悔するもの。

 

大人の女性として、大人の女性の先輩である母を信頼する。

 

「お母さん、ごめんなさい。」は、もういらない。

 

まだ分からないけれど、私は、もう、自分のエネルギーを犠牲にして、人の話を聞くことは減っていくと思います。


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☆私の半生 ①自然の中の原風景と父の死

☆私の半生 ②普通になりたかった青春時代。

☆私の半生 ③離婚、そしてがむしゃらへ。

☆私の半生 ④ロースクール受験を決意(前編) 崖っぷち!

☆私の半生 ⑤ロースクール受験を決意(後編) 母を助けられなかった。

☆私の半生 ⑥ロースクール入学、母の死

☆私の半生 ⑦合格、そして弁護士になる。