小川正美 人生はホントの自分に戻る旅。

普通の会社員から離婚して無職になり一念発起、弁護士になった私の半生とこれからのライフワークを綴ります。

言葉シリーズ⑧ 怒りも憎しみも嫌がらせさえも、愛。



皆さま、こんばんは。愛し合ってますか?

 

今日、感じた言葉は、表題のとおり、

 

『怒りも憎しみも嫌がらせさえも、愛。』

 

です。

 

私は、仕事柄、怒りも憎しみも嫌がらせもよく見かけますし、時には私自身にそうした感情が向けられたりするわけですが、

やっぱり、全ての感情は愛だな、と思うのです。

よく言われるように、愛の反対は嫌いではなく無関心なのです。

 

愛情があるから怒るし、

可愛さ余って憎さ100倍だし。

 

嫌がらせも、

もともとは嫌がらせ対象の相手に何らかの愛(意識的か無意識的かにかかわらず)があり、

かつ、嫌がらせ行為をする人には何らかの思い込みがあり(相手はこうするべき、という思い込み)、

それゆえ相手に何かを期待し、期待が裏切られたことに失望し、

その失望を自分1人の胸のうちに抱える強さがなく、

かつ、その弱い自分を認める強さもなく自分の現状の責任を相手に負わせて相手にこの状況を何とかしろと言いたいからこそ、

起こる出来事です。

 

また、嫌がらせをする人は、相手のことを良く研究していて、こうしたら相手は一番嫌がるだろう、傷つくだろう、という点をピンポイントで突いてきます。

つまり、そんなに研究するほど、相手に興味があるわけで。そこには、やはり、愛があるのです。

 

だからと言って、嫌がらせをしてくる人に、自分の関心を向けるかどうかは、別の話で。

それは、自分がその人に愛があるかどうかによって、全く異なるんですよね。

愛がなければスルーですし、愛があれば、嫌がらせに反応してしまいがち。

 

なので、逆説的ではありますが、怒りや憎しみ、嫌がらせの応酬になっている紛争(概ね夫婦か相続であることが多い)においては、それだけ多くの愛情が、実のところはあったんだな、と、私は思うのです。

 

もちろん、そこに愛があったことと、これからその関係性をどうするかは、次元の違う話です。

当事者ご本人にしか決められない領域ですから、相手がどうこうではなく、自分で、自分がどうしたいのか、決めるしかない。

 

怒りや憎しみを投げ合うのも、関係を修復するのも、絶縁するのも、その人たちには必要だから、起こっていることだと思うのです。


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