小川正美 人生はホントの自分に戻る旅。

普通の会社員から離婚して無職になり一念発起、弁護士になった私の半生とこれからのライフワークを綴ります。

存在を消さなければならない人なんて、いない。



前回の記事で、久々に母のこと、母方の親戚のことを色々と思い出しました。

 

これは、この機会に書いて、新しい時代に向けて昇華しようというお知らせのような気がするので、綴りたいと思います。

 

 

私の母は、四人きょうだいの二番目の次女で、姉、弟(三番目)、妹(末っ子)がいました。今、生存しているのは、伯母と叔母です。

 

思い出したのは、叔父のことです。

 

叔父は、生涯独身で、私が大学生のころに、亡くなりました。死因は膵臓がん、まだ40代前半だったはずです。

 

明確な享年を言えないのは、私や弟が、叔父の葬儀に行かなかった(母達姉妹から、子ども達は来なくていい、と言われた)ため、記憶が曖昧なのです。

叔父は、埼玉県内の病院で亡くなったということでした。

当時はバブルが弾けた直後でまだそこまで不景気にはなっていませんでしたが、叔父は、生活保護を受給していたそうです。

(念のため付言すると、私は、仕事柄、生活保護受給者の方の代理人をした経験もあり、生活保護受給について偏見はありません。)

 

当時の母は、叔父の存在を、とても恥じていました。

でも、自分達が扶養できるほどの経済力もなかったし、それぞれ家庭の事情もたぶん許さなかったのだと思います。

母は、単に恥ずかしいというよりも、困窮した叔父が、将来、私や弟にお金の無心をするのではないか、ということを一番恐れていました。

後年、母は叔父が早くに亡くなったためお金の無心が杞憂に終わって本当に良かった、と言っていましたが、気の優しい母にとっては、自分の血を分けた弟に対してそのような思いを抱くことはとても辛いことだっただろうな、と想像します。

 

叔父について、私が知っていることは多くはありませんが、記しておきたいと思います。

 

母達きょうだいは九州の炭鉱の町で生まれ育ち、祖父は、炭鉱の鉱脈を読む技師、いわゆるホンモノ?の山師をしていたそうです。

戦時中昭和17年に伯母が生まれ、終戦直前の20年に母が生まれ、以降3年置きに叔父、叔母が生まれました。

祖父の仕事は高給で、一家は、祖父が亡くなるまでは裕福な暮らしをしていたそうです。

伯母によると、祖父は随分と気前のいい人で、部下達を自宅に招いてはご馳走し、大酒を飲んでいたそうです。

 

母が小学校高学年のころ、祖父が胃がんで亡くなりました。

一家の家計は急落し、引っ越した先には水道もなく、坂の上の井戸への水汲みは母の仕事で、調理ももちろん竈、お風呂も薪だったそうです(時代劇のようだ)。

 

そんな中、祖母は母達きょうだいを高校まで卒業させました。

叔父は、顔立ちが良かったそうで(「そうで」というのは私にはイケメンに思えなかったから笑)、唯一の男児ということで家族から大事にチヤホヤと育てられたそうです。

子どもの私から見ても、若干ワガママではあるものの、人懐こい可愛げのある性格でした。

 

母達きょうだいは、高校卒業後、就職し、叔母以外は全員、東京で暮らすようになりました。

その後、伯母、母が結婚し、それぞれに子どもが生まれ、叔母と暮らしていた祖母が亡くなり、私の父が亡くなったときには、きょうだいは、全員、東京近郊に住んでいました。

 

私は、叔父とは、親戚の集まりで会うくらいで、あまり交流はありませんでしたが、お小遣いやお年玉をよくくれたことは覚えています。

長髪で、タバコと酒とギャンブルが好きで、昼から飲んでいて(あまり人のこと言えない笑)、いつもスポーツ新聞かジャンプかマガジンかサンデーを読んでいて、どこか拗ねたような、チョイワル(古っ)な雰囲気を醸し出している人でした。

すごく、昭和的な。

 

そんな叔父でしたが、一時期、同居したことがあります。

 

私の父が亡くなった後、母は、横浜市内の一軒家を購入しました。

40坪くらいの建物で、LDKの他に7部屋あり、3人で住むには少し広い家でした。

未亡人となり12年ぶりに会社員に復帰し小学生の子ども2人を育てることになった母を助けなければと思ったのか、当初の数年間(私が小学校5年~中学3年)、その家に、伯母一家4人、叔父、当時独身だった叔母も同居することになりました。合計9人の大家族です。

 

その家は、やはり9人で住むには狭すぎ、私が高校に入学すると同時に、伯母一家と叔父は、転居しました。

叔母は、その前に結婚したように記憶しています。

 

叔父は、私と弟に、よく、読み終えたマンガ週刊誌をくれました。そういう意味で、私達きょうだいは、叔父のことを好きでした。

ただ、スーツを着ている姿は法事以外ほとんど見たことがなく、かといって作業着等も着ておらず、いわゆる普通の会社員ではないのだろうな、と思っていました。フリーの専門職というわけでもなさそうでした。

 

私達一家と同居を解消した後、叔父に会う機会は、ほとんどありませんでした。父の七回忌くらいだったかもしれません。

 

私は、目の前の高校生活や大学受験や大学生活に手いっぱいで、叔父の存在を、ほとんど忘れていたのです。

 

上に述べたように、母は、私と弟を心配して、叔父を遠ざけていたそうです。

叔父の病気が悪化し、入院の手続のため、母達姉妹に自治体から連絡が来たときにも、亡くなった後にも、母は、私と弟に、「あんた達は知らなくていい。」と言っていました。

 

いったい母がどれほど私と弟を大切に思って守ろうとしていたのかと思うと、ありがたくて今でも泣けてくるのですが、

同時に、一緒に育った実の弟の存在を消すことは、どんなに辛かっただろう、と思ってしまうのです。

 

また、叔父についても、3人しかいない家族から、自分の存在を消されて、とても若くして亡くなって、いったいどんな苦しい気持ちだったんだろう、と思ってしまうのです。

 

叔父のことは、これまでほとんど思い出したことがなく、当然、人に話したこともありません。私自身、無意識のうちに、叔父の存在を恥ずかしいと思い、居なかったことにしてしまったのかもしれません。

 

でも、今日、急に叔父のことを思い出し、

 

 

【存在を消さなければならない人なんて、いない。】

 

 

と思ったのです。

 

お彼岸だからかな(過ぎてるって笑)。

 

叔父は、母方の曾祖母や祖母のお墓におり、2年前だったか、お参りをしました。

 

今度行ってこよう。

 

みっちゃん(叔父の呼名)。

ごめんね。忘れてて。


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