母方のことを書いたので、父のことを書いておこうと思います。
私が父と一緒に過ごしたのは、10年間だったので、明確に記憶している情報は少ないのだけれど。
私の父は、戦後すぐ、富山県の中規模の農家の二男として生まれました。
母と同じく、4人きょうだいの2番目で、男女構成は母の真逆。つまり、伯父(長男)、父(二男)、叔母(三番目の長女)、叔父(三男)というきょうだいでした。
さらに、結婚した時には、父も母も既に父親(私から見て祖父)を亡くしていたという点も一致。
私は、子どもの時には、「それがパパとママだから。」と考えもせず受容していたのか、何も不思議に思わなかったけれど、今にして思えば、不思議な符合です。
ひょっとしたら、両親が結ばれた要因の1つだったのかもれません。
父か母かどちらかから聞いた一説によると、農業用水の小川の利用権を持っていたから「小川」という名字を帯刀していた家なんだとか。本当かどうかは分かりませんが。
また、3年前の正月に、思い立って富山に行き父方の親戚の墓参りをしたところ(両親のお墓は関東にあります)、墓石には、「大阪市 4代目 小川健太郎建立」とありました。この墓石を見て、私は、数十年ぶりに、父方の親戚が大阪に何軒かあり大阪在住時にはよく遊びに行ったことを思い出したのでした。
※昭和7年に4代目が建立、ということはおそらく1代目2代目は江戸時代生まれだろうから、名字帯刀してたのか。
父の話に戻ると、父の幼い頃のことを、私はほとんど知りません。
野球少年だったらしいこと(私の幼い頃社会人ソフトボールをやっていた)、父もやはり大学には行かなかったこと(おそらく母の実家よりは裕福だったので経済的な事情で行けなかったのかは不明)、日本史世界史問わず歴史が好きだったこと、くらい。
そして、高校(高専だったかも)卒業後、母と同じ会社に入社し、知り合い、結婚したそうです。
新居は、尾道で、次に新居浜に転勤してから、私が生まれました。
私の覚えている父は、何だかおふざけが好きで、妻である母や私たち子どもをからかって面白がるところがありました。子ども達の前では、母のことをふざけて「ママゴジラ」とか呼んでました。
しょっちゅう、高い高いをしてくれたこと、電車のホームで両手を繋いで空中でぶるんぶるん回されて泣きそうになったこと(イヤ、泣いてたかも笑)、
大阪にいた時には京都嵐山や比叡山や琵琶湖にドライブに連れていってくれたこと、
弟に「動物を見に行こうか」と言って帰ってきたら弟が母に「お馬さんの動物園楽しかった!」と言って競馬場に行ったことがばれたこと(笑)、
よく伊丹空港に飛行機を見に行ったこと、
いつも母と手を繋ぐのは弟で「私もたまにはママがいい!」と言ったら若干悲しそうだったこと(笑)、
酔っ払うと同僚を家に連れてきて家飲み二次会をしていたこと、
そしてその行動の理由は実はどうやら父に文句も言わずちゃっちゃと美味しいおつまみを作って一緒に飲む母のことを自慢したかったらしいこと、
母と実は仲良しで子ども達が寝た後夫婦だけで飲みに行ってたこと(母談)、
見知らぬ傷痍軍人が物乞いに家に訪ねてきた時に少しのお金をあげて説教をしていたこと(戦後35年は経っていたのにそんな人がいた)、
社内外で人望が暑かったらしいこと、
夏にどこか日本海の海に行ったら父がものすごくガンガン泳いでいて意外に思ったこと、
毎年夏、富山の田舎で食べたトウモロコシや川で冷やしたスイカ(このスイカは食べられた)、木熟れのトマトの美味しかったこと、
冬の富山の雪深さ、2階から外に出て驚いたこと、
母の作るご飯が好きでとても食いしん坊だったこと。
あれ?案外たくさん覚えていますね(笑)
そんな風な父でした。これだけエピソードを思い出しても、子どもの時にしか会っていないから、実際の父が、何を考え、どんな人格だったのか、把握しきれないのがもどかしい。
ただ、子ども目線から見たら、ちょっとふざけてるところもあったけど、面白くて優しくて良い父でした。
以前にも書きましたが、父は、出張先で会議中に突然倒れ、そのまま還らぬ人となりました。
私は、弁護士になって以来、仕事で、言いたい放題言われたり(言い返すけど笑)、責任の重さに胸がつぶれそうになったりして、たくさん傷つきましたが、
また、プライベートでも、離婚やら失恋やら行き違いやらたくさん傷ついてきて若い時なんて消えてなくなりたいと思ったりしましたが、
出来事の瞬間的衝撃の大きさでは、「え?死んだ?」と母からの電話口で伯母が言った時のショックを超えるものは、いまだにありません。
だからどうした、って話ですが。
だから、もしかしたら、人の心の痛みの強さを理解できるのかもしれないし、
だから、早く大人になろうとしたのかもしれないし、
一方で、私たちを置いて死んでいった父を恨みもしたし(理不尽だけど)、
あれよりも衝撃的なことはたぶんもうないし、あったとしても心の痛みは愛があるからだと知っているから、私は大丈夫、と思えるようになったのでした。
●続く。