小川正美 人生はホントの自分に戻る旅。

普通の会社員から離婚して無職になり一念発起、弁護士になった私の半生とこれからのライフワークを綴ります。

太陽で生きて、月を受け容れる。



皆さま、こんにちは。愛し合ってますか?

 

今日も、何となく星っぽいお話です。

 

殆どの人が、心のなかに、太陽みたいなお日さまみたいな(同じだよ笑)、憧れの人・心の支えとなる人を持っていると思います。

私も、「勝手に私のお日さま認定」している人が複数人います。

 

ただ、私の場合、時に、お日さまと違う自分を責めて、自信を失くしてしまうことがあります。

どうして私はあの人みたいに優しくないんだろう、とか、賢くないんだろう、とか、くよくよしちゃうんだろう、とか、才能がないんだろう、とか、まあ色々。

 

そして、そのモヤモヤを、見ないふりをしてみたり、努力して足掻いてみたり、「わ、私だって他に良いところあるもん!」と変な対抗意識を持ってみたり、「どうせ自分なんて。」といじけたり。

 

そんなとき、自分が、月になったような気持ちがします。

 

自ら輝くことができず、太陽の光を反射しているお月様。

 

 

でも、実は、全ての人は、太陽でもあり、月でもある。

 

自信を失くしている人も、実は誰かの太陽だし、自分の太陽であるあの人も、誰かを太陽にして眩しく見つめているのかもしれない。

相対的なのです。


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人が人であるかぎり、どんな天才や偉人であろうとも、どうしようもなく、欠損している部分はあります。

 

例えばそれが少しの努力でどうにかなる類いのことであったり、その人にとって大切なことでなければ、欠損ではなく。

 

その人にとって大切で、こうありたい、と強く願うにもかかわらず、絶望的なまでに苦手だったり、感情がそもそも欠けていること。

それが欠損。

 

そんな自分でも認めたくない欠損と、どう向き合うか。

 

欠損している部分に執着して努力や何やらでどうにかコントロールしようとするよりも、自分の中の太陽的な部分を活かし、光輝く。

 

そして、欠損は欠損として、ありのままに受け容れる。

 

欠損は認めたくないものだし、

時には、

自分の才能すらも、「こうありたい」という自己イメージとの関係で、認めたくない時もある。

例えば、

女性だったら、自分の強さという才能を認めると男性から守って貰えないような心地になるかもしれないし、

男性だったら、自分の愛という才能を認めると自分が弱くなったような女性を守ることができないような心地になるかもしれない。

 

そうして、才能と欠損を受け容れた時、逆説的だけれど、不完全な私たち人間が完全性を得るのかもしれない。

 

 

いやまあ、完全にならなくたっていいんですけどね。ぜんぜん。人間だもの。

 

マドモアゼル愛先生の月理論に目から鱗です。