太陽を「創造的な本当の自分」、月を「自らは輝くことをしない自分」となぞらえるならば。
みんな、もっと自分の太陽の要素を出して生きていい。
と思う。
私は、自分がいわゆる大人になったと思ったころから、周囲の空気を読んで、相手の気持ちを推し量って、TPOに合わせて、
リーダーになったり、参謀になったり、フォロワーになったり、
おバカキャラになったり、賢いキャラになったり、
年寄りぶってみたり、若者ぶってみたり、
ハキハキキャラになったり、物静かになったり、
毒舌になったり、優しくなったり、
異なる自分を演じてきたと思う。
それらも、矛盾するようで、全部自分の一側面なのだから、それはそれで良い。
ただ、どの自分を出すかの動機・理由が、「周囲に合わせる」しかない、「そうしなければ自分はここに居場所がなくなってしまう」というような恐怖心にあると、とても疲れてしまう。
周囲に合わせることも、合わせないことも、どちらでも選択できて、その上で「今は合わせたい」と思うのなら、自由があるから、気は楽だ。
私事だけれど、ここ数年、かなり、恐怖心から人に合わせることはなくなったと思う。
おかげでとても心が楽に生きやすくなったし、そういう余白ができたせいか、これまで見えなかった人の優しさを受け取ったり、見たりできるようになったと思う。
ただ、積極的に自分の意に沿わないことをすることは減っても、それでも、自分を消した方がいいな、と思って遠慮する、そう、「月」になってしまう場面は、まだまだよくある。
その動機は、恐怖心というよりも、無力感・無価値感のようなもの、「ここで自分を消した方が全体が上手くいくだろうな」というバランス感覚のようなもの。
★バランス感覚について深く共感。
でもさ(急に馴れ馴れしい)。
誰かが太陽になったら、誰かが月にならなければならない。そんな役割分担、誰が決めたの?
そう。自分です。
誰からも強制なんてされていない。
みんなが、太陽として輝いていいのだ。
みんなが太陽になったら、カオスになる?カオス上等。その方が楽しいもの。
ハワイアンレストランなどでライブが行われると、メレフラタイムというものがある。
Mele(歌、曲) Hula(踊り)、つまり、曲に合わせて踊りましょう、という時間。
そこにいる、踊ることができる人達が、みんなで立ち上がって踊る。
フラの振り付けというのは、歌詞による一定の制限はあるけれども、基本的に自由で、教室ごとに異なる。
つまり、定番曲が演奏された場合、その場にはいくつもの異なるステップや振り付けのダンサーたちがいる。
それでも、みんな、自分たちのフラを、踊る。
ちょっとしたカオスだけれど、とても、楽しい。
みんな、太陽で生きていいのだ。
びっくりニャンズ。